江戸末期、国定忠治とならび上州の侠客(きょうかく)として知られる大前田栄五郎は、寛政5年(1793年)、旧大前田村田の田島家次男として生まれました。
栄五郎の父久五郎は大前田を縄張りの中心とする博徒(ばくと)であり、兄要吉も「大前田の盲親分」と称され、栄五郎も小さい頃から父の血筋を受け、少年時代は「火の玉小僧」と呼ばれていました。若い頃は、博徒の縄張り争いから各地を転々と旅し、「天下の和合人」と呼ばれる博徒の大親分となって、上州一国のみならず関東、東海、甲州といった県外にも知られ、全国に二百二十四ヵ所の縄張りを持っていたとされます。
晩年は、大胡町の向屋敷に居を構え、母の血筋である高橋家に嫁いだ姪の世話になり、明治7年(1874年)2月26日に82歳で死去しました。墓は大前田(本掲載場所)と市内大胡町雷電山の2か所にあり、大前田の墓石には戒名「観広院特寿栄翁居士」や辞世の句「あらうれしゆくさきしれぬ死出の旅」などが刻まれています。同墓地には父母、兄要吉の墓なども並んでいます。墓石は博徒えい栄五郎にあずかり、墓石の一片を持っていると勝負に強いという迷信から角が欠けて丸くなっています。
栄五郎が献燈したとされる石燈籠が、三夜沢赤城神社や産泰神社(前橋市下大屋)などに残されています。
観光地・施設情報
所在地 | 群馬県前橋市大前田町1785-7 |
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お問合せ先 | 前橋市教育委員会 文化財保護課 |
電話番号 | 027-224-1111(代表) |
料金 | なし |
時間 | 常時 |
定休日 | なし |
駐車場 | なし(墓入口付近に一時的には可能と思われる) |
トイレ | なし |
自販機 | なし |
売店 | なし |
その他 |