戦国の雄織田信長の二男信雄は、元和元年(1615)、大和松山と上野小幡など五万石の領主となり、この地へ陣屋を築き統治しました。後に、三代信昌は、祖父信雄の遺命により、松山三万石を叔父織田高長へ譲り、小幡二万石のみの領主となった。明和4年(1767)、家老吉田玄蕃が山県大弐と親交があったという理由(明和事件)で出羽高畠二万石に移封されるまで、八代百五十二年間小幡の藩主として統治しました。
宝積寺(ほうしょくじ)は、旧領主小幡氏の菩提寺で格式も高かったため、織田氏も三代までこの寺を菩提寺としていました。四代信久は急に、廃寺であった崇福寺(そうふくじ)を三年間で改築し、臨済宗に改めて菩提寺として、宝積寺から三代の墓石をここへ移した。その後、宝暦8年(1758)に焼失し、再建後明治4年に失火し再度全焼した。墓石の破損が生じたのはこの時と云われ、墓前の畑が寺跡であったと云われています。当時は、廻廊が墓に達し、墓石には一箇所づつ上屋がついていたといわれています。現在入口には「下馬」の碑も残っています。
織田氏位牌堂
織田家の菩提寺崇福寺は、宝暦8年(1758)と明治4年(1871)の二度の火災に遭い、歴代藩主の位牌は難を逃れ檀徒によって今日まで大切に守られています。位牌は、昭和61年に建造された位牌堂内で安置・保存され、二代信良と七代信富を除く十代信美(のぶかず)までの位牌と、二代大和松山藩主で四代小幡藩主信久の実父でもある織田高長の位牌も祀られています。
小幡織田氏初代 織田信雄の墓
織田信長の二男で、本能寺の変後、尾張・伊賀・南伊勢約100万石を領し清洲城を居城した。のち所領を失い、大坂夏の陣後の元和元年(1615年)に小幡領主となる。寛永7年没、享年73歳。小幡織田氏二代 織田信良の墓
信雄の四男で、所領五万石のうち小幡二万石を相続するが、信雄に先立ち寛永3年、43歳で没する。小幡織田氏三代 織田信昌の墓
信良の長男で、二歳の時に叔父高長を後見人として信良の遺領小幡藩を相続。領内の検地を実施するなど、藩政の基礎を固めた。寛永19年(1642)小幡陣屋が完成、福島(甘楽町)から移住。慶安3年没、享年26歳。小幡織田氏四代 織田信久の墓
織田高長の四男で信昌の養子となり、用水・土地開発等、六十余年藩主として民政に尽くす。崇福寺を再建し宝積寺から歴代三代の墓石を移し菩提寺とした。正徳4年(1714)、享年72歳。小幡織田氏五代 織田信就の墓
信久の三男で、兄・織田信盛、織田信知の死去にともなって嫡子となり、正徳4年(1714年)、信久の死去により家督を継ぐ。享保16年(1731)没、享年71歳。小幡織田氏六代 織田信右の墓
信就の四男で、兄の織田信房が廃嫡、織田信常、織田信乗が病気で相続人の地位を辞退したため、享保16年(1731)、信就の死去により家督を継ぐ。宝暦12年(1762)没、享年50歳。小幡織田氏七代 織田信富の墓
信就の七男で、実兄織田信右の長男織田信賁の死去にともない、宝暦7年(1757)信右の養子となる。 宝暦9年(1759)信右の隠居に伴い家督を継ぐ。明和元年(1764)没、享年42歳。観光地・施設情報
所在地 | 群馬県甘楽郡甘楽町小幡1416 |
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お問合せ先 | 甘楽町社会教育課 文化財保護係 |
電話番号 | 0274-74-3131 |
料金 | なし |
時間 | 常時 |
定休日 | 常時 |
駐車場 | 崇福寺境内ほか |
トイレ | なし |
自販機 | なし |
売店 | なし |
その他 |